戦後70年、ドイツと日本でまったく異なる総括の姿勢

タグ

, ,

敗戦から70年・メルケルの誓い
http://www.huffingtonpost.jp/toru-kumagai/auschwitz_b_6640844.html

ハフィントンポストでいい記事が上がってた。
いかにもドイツらしい、ナチスドイツの反省に基づいた過去の戦争への反省を口にしている。そのために、ドイツは、ナチス時代の負の遺産を頑なに守っている。過去の残虐な行為の記憶を風化させないようにするためだ。あの戦争は確かにナチス党とヒトラーが仕掛けた戦争だったが、そこにいつの間にか国民全体がうまく乗せられてしまった。そのことを「恥」として反省をしている。実にわかりやすく、合理的な考えだ。

これに対して、同じ敗戦国で同じく今年敗戦から70年を迎える我が国の首相は、この考えとはほぼ真逆の方向に戦争を総括しようとしている。「戦後レジームからの脱却」というのが、安倍首相のやりたいことだということはわかっているが、脱却することと忘れてはいけないこととは別である。彼ら右派の考えによると、現在の日本国の憲法は、戦勝国であるアメリカ合衆国に押しつけられたものであり、極東軍事裁判も、まともな裁判とは言えなかったという。戦後の教育は、祖国を不当に自虐するようなものであり、歴史も歪曲されて伝えられているという。まあ、そうした考えもわからなくもない。それは事実という側面もあるだろう。しかし、だからと言って、戦争責任を放棄することはできない。それとこれとは話が違う。

日本はドイツと同じように、かの戦争に負けた。敗戦国として責任と賠償が求められた。ドイツではナチスに関係した多くの人間が逮捕され裁かれた。日本でも同様の裁判が行われた。その中身がどうとかいう前に、これは戦争という行為の代償としてなくてはならないものであった。これは誰にも否定できない事実である。これを否定するのであれば、戦争の責任を日本は別の形で再度取らされることになるだけだ。

しかもその後すぐに始まった東西冷戦で、ドイツの場合、国が東西に分断された。日本はロシアによる北方領土の占領や、アメリカによる沖縄の占領ということはあったにしても、そこまでの国家分断は起こらなかった(代わりに朝鮮半島が南北に分断された)。これは我が国にとっては非常に幸運なことで、日本は同じ国民同士で銃を向け合うという悲劇に立ち会わなくて済んだ。その代わりに、沖縄はその後もずっとアメリカに占領されたままとなり、米軍基地の負担はひとり沖縄だけが背負うといういびつな形が今でも続いている。これも、敗戦の一種の責任とでも言うべきものだが、そのレジームから脱却するのであれば、沖縄の抱える負担を解消すべきであろう。しかし、安倍政権はそのことにはフタをして見ぬふりをしている。

対アジア外交でも同じことが言える。日本は、中国やその他のアジア諸国に軍隊を送り戦闘行為を行った。これは事実だ。大虐殺があったかどうかはわからないが、日本軍は大東亜共栄圏というイデオロギーを打ち立てて、大陸進出を試みた。もちろん侵略戦争である。やっていることはナチスドイツの東方戦線と何ら変わらない。そのこと自体は、誰が何と言おうが、歴史的事実である。「勝手に暴走した軍部が悪い」とか言っても何にもならない。そのことを許したのは、結局日本国民であるのだ。だから、あの戦争は「恥」であったと、日本国民は素直に思うべきなのだが、どうしてもそのことを認めたがらない歴史修正主義者とでもいうような人たちがいる。あれは正義の戦争だったのだと今でもうそぶく人がいる。それは事実のすり替えに等しい。罪は罪として、戦争は戦争として認めなくてはならない。賠償問題などはサンフランシスコ講和会議で片が付いているはずなので、そこは強く主張してもいいが、だからといって責任がなくなるわけではない。日本人は「恥」をしっかり感じながら、アジアの国とやっていかなくてはいけないのだ。

ただ、むやみやたらに自分たちを卑下することはない。日本は日本としてやるべきことをやり、平和安定のために貢献すればいい。中国などの領海侵入を許す必要もない。強く出るべきところは強く出て、引くべきところは引けばいいだけだ。となった場合に、どうしても我が国が守らなければいけない一線がある。それが、戦争責任の総括だ。今さら話を蒸し返して、もう一度あの戦争の責任を負い直すというのは、どう見てもおかしい。しかし、安倍首相の「戦後レジーム脱却」は、それを蒸し返すような行為にしか見えない。そんな労力の無駄をするくらいなら、どうして70年間もずっと我が国は守ってきた「戦後体制」を保持し、恥は恥として認めていくということをしないのか。それだけで済みそうな話をどうしてまたこじらせようとするのか。僕には意味がわからない。

この問題に対しては、少しはドイツのやり方を見習ったほうがいい。歴史はきちんと断ち切らないと、前に進めない。

ISによる日本人人質殺害事件の結末

タグ

, ,

今回の事件の結末は非常に残念だが、しかしながら、問題が発覚した時点である程度この結末は目に見えていた部分もあって、だからこそ情緒的・反射的にではなく、冷静に対応したいと思うのである。野口さんのおっしゃってることはしごくもっともで、政府(安倍)が悪いとか、自己責任だとか、そういうことを言う人は、どちらも自分の責任を放棄しているか、知識がないか、想像力がないかのどれかだ。

昨日からこれに関するTVニュースを見ているが(実はその前日にかなり眠くて、9時くらいには寝てしまったこともあり、早朝目が覚めてテレビをつけたらちょうど第一報が入ったところだった)、日本のテレビ局の報道番組にはまともなアンカーマンがいないのか、じゃあこれからどうしたらいいのか、ということを結論づけずに、いたずらにすでに起こってしまったことのビデオを流し続けるという、ろくでもないものばかりだった。これでは、闇雲にISの恐怖を拡散しているだけではなかろうか。

僕が思うに、「テロとの戦い」に否応なく巻き込まれたからには、国民側もある程度の意識は必要だが、何もそれほど身構えることはない。「ISが何を言おうが、ふざけんな、バーカ」くらいの気持ちでいいはずだ。ただ、日本は政府も国民も、この地域に対する正確な情報・知識・関心がなさすぎるのは、本件の対応でも明らかになった。まずは敵を正確に知ること、これが大事だろう。ベースとなる知識もないのに、いたずらに怖がったり、嫌悪したり、ましてや攻撃するのは間違っている。

もうひとつ注意しなくてはいけないのは、今後、日本国政府があまりにもヒステリックな対応を起こさないように監視することだ。一部国会議員はこれまでもトンデモ発言をしているし、安倍首相も、こうした事態に備え、自衛隊を派遣することを検討するようなことを言っている。個人的には、自衛隊の派遣自体に反対というわけではないのだが、どうやって助けるのか?の具体的方法がまったく見えない。

http://jp.reuters.com/ar…/jp_islamicst/idJPKBN0L602K20150202

以前にも書いた通り、このレベルの捕虜救出作戦を全世界的に行えるのはアメリカ合衆国だけであり、そのアメリカでも、イラクでは作戦を失敗しているほど、救出作戦というのは難しいものなのだ。つまり、そういうまさにミッション・インポッシブルに期待するよりも、もっと国をあげて、普段からの絶えざる情報収集を行ったり(もちろんジャーナリストの活動も含まれる。そういう意味で、最前線で動けるジャーナリストの存在は国にとっては宝だ)、外交官の人員を増やすなど、やるべきことはたくさんあるだろうという話だ。もちろん、有事の際には、当事国に全面協力してもらえるような関係構築は重要だし、日本という国が本当の意味で自立するには、まずこうした人的ネットワークしかないだろうと思うのである。

【映画】「ハンナ・アーレント」を見て

タグ

150128HANNA

先週の風邪がまたぶり返してきたようで、咳がひどくなってきたため、今日は大事をとって早退。とはいえ、ずっと咳が出ているわけでもなく、寝てなければならないほどの状態でもないので、ソファに横になりつつテレビを見てたら、少し前に気になっていた「ハンナ・アーレント」をWOWOWでやっていたので視聴した。

ハンナ・アーレントは、ハイデッガーの弟子であるユダヤ系の女性哲学者である。当然ながら、ナチスとユダヤの問題は身をもって体験しているのだが、それでもなお安易にイスラエルを支持せず、あくまでも客観的に物事をとらえていこうというその姿勢を追った映画だった。実に考えさせるべきところの多い良作であったと思う。

ハンナは、イスラエルのモサドにとらわれた元ナチスの大物・アドルフ・アイヒマン(多くのユダヤ人を収容所に送ったとされる)の裁判を傍聴し、その奥に隠された「悪」の姿を真剣に思考する。彼女によれば、アドルフ・アイヒマンはただの平凡な役人でしかなく、その無自覚な、無思考な態度こそが「より大きな本当の悪」だと説く。

しかし、イスラエルはもとより、大きなユダヤ人コミュニティを抱えるアメリカでも、彼女の書いた記事はとうてい受け入れることのできない問題として大反発を招く。彼女の友人であったユダヤ人も次々と彼女と絶交していく。それでも、彼女は自分の考えを曲げたりしない。なぜなら、自分はユダヤ人であるが、それ以前に人間だから。私が愛するのはユダヤ人ではなく、自分の友人だから、という。非常に信念の強い、そして非常に客観的な思考を持った人だったことがよく描かれている。

この映画で重要なのは、思考することの重要さと、思考することの孤独さだと思う。それこそ師のハイデッガーが言ったように。たとえ100人中100人がNoと言っても、私はこう思うと言える強さがあるかどうか。それが真実であると思考し抜く力があるかどうか。

このテーマは、昨今の「表現の自由」とも大きく関連している。真の表現の自由とは何なのか? ハンナの例は極端な環境(ユダヤvsナチスという憎悪関係において、ユダヤである彼女が、当時のユダヤコミュニティのリーダーを部分的に批判した)であるが、こういう「同調圧力」というのは、どの世界でも存在する。イラク戦争当時のアメリカがそうだったし、太平洋戦争時代の日本もそうだったろう。真実を考え抜き、それを言うことをやめて、思考を止めることの恐ろしさ。それこそが全体主義への道であると彼女は言う。そして、あのナチスが引き起こした全体主義の本当の悪とは、そこに思考を止めて参加した多くの国民(たとえばアイヒマン)と、実は被害者であるはずのユダヤ人の中にもいたナチスへの協力者(もちろん全面的な肯定ではないだろうが)にもあるのではないか、と彼女は問うている。そんなことを、はっきり言い切れる哲学者が、論客が、ジャーナリストが、この国にどれだけいるだろうか。

「人のいやがること、不快だと思うことはしなければいい」。これが、多くの日本人の情緒的思考だということが「Charlie事件」のリアクションでわかったが、時には、周りの人の不快を買って、絶交されたり、生命の不安を感じたりしながらも、真実を言い続けることに意味はないだろうか。そういう思考を止めて、周りと同調することだけが重要なのだろうか。そういうことを言っても、さまざまな圧力によってつぶされないことが、本来の「表現の自由」であると思うのだが、何かあれば「自粛」することを美徳と感じる国民にはなかなか理解しがたい概念なのかもしれない。

非常に示唆に富んだ作品だし、ハンナ・アーレントの著作をぜひ今後読んでみたいと思わされた。

映画「ハンナ・アーレント」公式サイト
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/

日本人の同胞意識って?(クソコラ事件で考えさせられたこと)

タグ

, ,

イスラム国(ISIS)に対するツイッター利用者の攻撃と海外からの評価
http://blogos.com/article/104194/

ことの善し悪しは別として、今の日本と日本人のメンタリティを考える上で、ものすごく考えさせられた。

こんなことは「日本の恥だ」と切り捨てるのは簡単だ。しかしながら、では日本人おのおのの心の中はどう感じているのかを考えたときに、彼らの考え方を100%否定できるだろうか、とどうしても感じてしまう。

彼らがこんな非常時でもテロリストを茶化してしまうのは、単純に言って「当事者意識がないから」にほかならない。日本国の政治にも参加している意識がないし、そもそもそんな危ないところへ行くヤツが悪い、くらいの気持ちしか持っていない。自分には関係ない。こんなことでも日本や自分や自分の家族などがテロに巻き込まれる可能性がある、というような想像力すらない。だから、行動としては言語道断である。

しかし、その一方で、彼らを批判するご立派な意見の中には、「同胞意識が足りなすぎる」といった言説も見受けられる。まあ、その通り。同胞意識など彼らの中にはない。しかしながら、僕らの心の中に、はたしてその「同胞意識」がどれくらいあるのだろう? 僕個人に関して言えば、やはり希薄と言わざるを得ない。もちろん茶化したりしないし、マジメに深刻にとらえているわけだが、彼らが日本人の同胞だから、何が何でも救わなくてはいけないというような嘘偽らざる気持ちが、心の底から出てくるかと言えば、やはりそこには、ある程度突き放して今回の件を見ている自分がいる。日本人だから、同胞だから、という意識はやはり希薄だ。そして、この感覚は、多くの国民が言わないまでも、実は心の底に持っている偽らざる気持ちではないだろうか。

現代の日本人は、西洋的個人主義とはまた少し違うベクトルでの個人主義が究極化している国だと思う。「自分は自分、他人は他人」という自己中心的な考えにプラスして、「不干渉主義」とでもいうような、他人の行動に干渉しないという不文律ができあがっている気がする。たとえ、それが道徳にもとることであっても、他人を注意したりすることはまずなく、困っていそうな人がいても素通りする。西洋社会で言うところの「友愛精神」が足りない。フランス国旗になぞらえて言えば、「自由」「平等」はあっても(それもどうかという意見もあるだろうが)「友愛」はない。もちろんすべての日本人がそうだというわけではないが、全体の傾向として、不干渉主義が社会を覆っているのは間違いない。よく出てくる「自己責任論」も、結局はここから出ている。

その不干渉主義が、先日の「Charlie Hebdo」事件では、「やらなくていいことはやらないほうがいい」という声になって現れたと思わなくもない。その一方で、ネット上(より正確に言えば「2ちゃんねる」上)では、匿名をいいことに、やりたい放題・言いたい放題の日本人も大勢いる。彼らにとっては、それは「表現の自由」だというのかもしれないが、Charlieの例と違うのは、ある程度責任を持って、あるいは問題意識を持っているわけではなくて、単に「おもしろいから」という程度の軽い動機しかないことである(先日の、ようじ混入事件とかもまさにそうだった)。彼らにとって、世界のどこかで行われている戦争やテロは他人事であり、そんなところに首を突っ込むようなめんどうな人間は、自分とは関係なく、助けるに値しないというわけだろう。そもそも、彼らは、きわめて狭い社会(ネット含む)で生きていて、自分さえ平穏であればそれでいいわけだから、同胞意識や友愛の精神などはなからあるわけがない。

そうした日本人の、一種行き過ぎた(必ずしも文字通りではなく、ある意味では世界で一番自由な)パロディ表現に、世界中が驚くのも無理はない。グローバルな一般的なセンスでは、「それはあり得ないこと」だろうから。「人の命が、同胞の命がかかっているのに、あえて、敵を怒らせるようなことをするのか?」と怒る人も出てきそうである。もしかしたら、当のISの人間が一番驚いたかもしれない。「日本人は、同胞の命をどうとも思っていないのか?」と。答えは、Noであり、またYesである。もちろん、日本人だって同胞をおもんばかる気持ちはあるが、グローバル標準の意識からすると、それはかなり低い。高額な身代金を払う必要性はないと、国民の大半はおそらく思っている。政府も、表だっては言わないが、払う意思はないだろうし、見殺しにする用意はできているだろう。ある意味で、恐るべき同胞愛のない冷徹な国民であることが、今回の事件で明るみに出た気がする。西洋社会のみならず、世界からも「日本人はクレイジーだ!」と思われるだろうが、これは一部の人間の行き過ぎた表現ではあるものの、実は、多くの日本人のメンタリティの極端なデフォルメだとも言えなくない、そんな気がしている。

そんな中で、「国家って何だろう」とふと思う。「国家とはすなわち国民である」というなら、今の日本を覆うこの同胞意識の低さ(たとえば、沖縄の基地問題とて、このコンテクストで読めば理解できる)は、はたして国家として機能しているのだろうか? フランスはフランスで、先日のCharlie事件で、国民とは何なのか、国家とは何なのかを真剣に問い直していると思うが、日本は日本でそのあたりの部分をしっかり捉えなおしたほうがいいのではないだろうか(正せとは言わない。何が正しいのかは誰にもわからないから)。「国家は国民の生命を守る義務がある」というが、そもそも国民(=国家)が望んでいないとしたら、それも自己責任だとみんなが思っているとしたら、この大前提自体が成り立たない。現代日本はそうした国家的枠組みが非常に危ういところまで来ているのかもしれない。

日本国の外交センスのなさ

タグ

, ,

今回のISによる日本人拉致殺害警告に関連して、安倍首相のイスラエル訪問や、エジプト・カイロで表明したIS周辺当事者国に対する支援金の件が問題視されている。これについては、IS自らがメッセージで名指しで突いてきている点だけに、何らかのトリガーとなってしまった感は否めない。もちろん、だからといって、何でも安倍首相が悪いと言うつもりもない。テロの口実とされてしまった、まんまとやられた、という気もする。ただ、個人的にも、フランスの「Charlie Hebdo事件」の直後でもあったわけだし、もう少しいろいろ気を使えなかったのか(主に取り巻きの役人が)とは思う。

“72時間は短すぎる。時間をもう少しいただきたい”〜イスラーム法学者・中田考氏がイスラム国の友人たちに呼びかけ(BLOGOS)

こちらの記事にもあるように、中東を歴訪するのであれば、かなりいろいろなことに気を遣わなければならないのは、常識だろう。特にイスラエルについては、本当に付き合い方を間違えると、この地域での信頼を一気に失う可能性がある。日本の外交は、どちらにもつかず、のらりくらりの八方美人的外交だと思っているが、それで今のところ問題ない。少なくとも、この地域に関して言えば、アメリカに追随していいことはないと思う。

しかし、今回の中東訪問が、エジプト、イスラエル、パレスチナ、ヨルダンだけだったというのは、やはり少し腑に落ちない。事件が起こった直後の首相会見はイスラエルで行われたが、「中東の安全」について「イスラエル」でスピーチすること自体が何かズレており、やたらイスラエルに媚びているような雰囲気を僕ですら感じ取った。彼の地のムスリムであればなおさらだろう。前もって仕組まれていたのかもしれないが、結果として火に油を注ぐようなものになってしまったような気もする。

もちろん、こうしたスピーチも外交日程も作るのは外務省の官僚だろうから、責任はむしろ外務官僚にあると言えるのかもしれない。その道のプロであろうに、上記リンクの中田先生の言葉を借りれば、「非常に不用意であると言わざるを得ない」と思う。要するにセンスがないのだろう。

そもそも、こういう事態を日本は想定しておらず、交渉パイプも、情報収集手段すら、自前では持っていない。72時間という時間の中で、何かをなせる可能性は残念ながら非常に低いと言わざるを得ない。どこかのアホな国会議員が、「それ、こんなことにも対応するように憲法改正だ、軍事強化だ」などとほざいているようだが、軍備力強化よりも、まずは情報収集のためのインテリジェント達をしっかり組織すべきだろう。

いずれにしても、今できるパイプは全力で使って、邦人の生命保護に最善を尽くしていただきたい。

ISによる日本人殺害予告を、日本人としてどうとらえるか

タグ

, ,

今日は、前日から続いていた体調不良のため、会社を休んだ。そのため、ISによる日本人殺害予告のニュースは発生時からほぼリアルタイムでテレビで見ることになった。

「ついにこのときが来たか」と思った。

「日本は平和主義だから世界中で受け入れられる」というのはもう昔の話だと思った方がいい。我が国の政府は、実際の軍事行動には参加していなくとも、後方支援や資金協力といった形で、実際の米軍のイラクなどへのオペレーションには参加してきている。もちろん、だからといって、イスラムの国々が日本を敵視しているわけではないが、ISのような話の通じないテロ国家相手に「日本は平和主義だから」という意見は通用しない。そして、安倍首相のいうところの「積極的平和主義」を遂行しようとすれば、こうした軋轢はさらに強くなる。

そもそも、日本は中東に関しては、石油の確保が国の生命線なので、非常にあいまいな態度をずっととり続けることで、この地域における争いを回避してきたという希有な国である。アメリカがイランと衝突した際も、イランと国交を保ってきたし、どこかの国と国交を断絶したこともなければ、逆に強く支持もしてこなかったはずだ。ある意味、ずるいとも思えるが、それがこの国の狡猾な外交手段だったはずだ。

そのバランスが今少し崩れつつある。日本はよりアメリカ追従の姿勢を強くしており、国連でもイスラエルに対する非難は行わない。今回の事件も首相がイスラエルを訪問するタイミングを狙っていた様子もあり、ISの意図としては、日本の首相が親イスラエルであることを強調させようとした感じもしなくもない。要するに、日本は前もって狙われていたのだ。

日本人は、世界各国で起こっているイスラム原理主義によるテロとは無縁だと思っている。でも本当はもうそんなことを言っていられないことに気がつくべきだ。フランスで起こった「シャルリー・エブド事件」に関しても、やや過剰反応なんじゃないかというような意見も目にしたが、それはやはりテロが遠い国のことだという考えの裏返しだと思う。ISのようなテロリストに論理は通用しない。今回このような事態に陥ったことで、日本国民全体がそのことをどのように考えて、これから行動するのか。「テロとの戦い」という言葉の意味と重みを感じられるのか。そのことが突きつけられていると思う。

■参考サイト
「イスラーム国」による日本人人質殺害予告について:メディアの皆様へ(BLOGOS)
http://blogos.com/outline/103883/

“Charlie Hebdo”最新号の表紙に関して

タグ

, ,

charlie1

話題の”Charlie Hebdo”の最新号の表紙に関して、これまたさまざまな議論が起こっています。

国内のいくつかの新聞社(読売新聞など)では

「全て許される」という見出しを掲げており、ムハンマドへの風刺も許されるという意味とみられる。

といった記事が掲載されていたが、それはちょっと言いすぎじゃないか。

これを見て感じるのは、こういうことだと思う。

「全ては許される」(もちろん聖書の文句)&「ムハンマドが”Je suis Cherlie”」のカードを手にしている(涙らしきものも見える)」。

要するに、ムスリムがCharlieを支持してもそれは許されるし(対立するものではない。実際にそう行動した人たちも大勢いた)、今回の事件の犯人も(もちろん憎いが、それでも)すべては(キリスト教徒とイスラム教徒によって)許される、ということなのだろう。決して、「ムハンマドへの風刺が許される」とかいう現的的な意味ではなく、「風刺(言論・表現の自由)はすべて許される(べき)」という同社の姿勢でもあろう。

なんか妙な書き方だけはしないでほしい。

そう思っていたら、同じようなことを思っている人も結構いるようなので、紹介しておきます。

「許す」と「赦す」 ―― 「シャルリー・エブド」誌が示す文化翻訳の問題(SYNODOS)
http://synodos.jp/international/12340

シャルリー・エブド紙Tout est pardonné(All is forgiven)に込められた真意(BLOGOS)
http://blogos.com/article/103494/

「表現の自由」か、「侮蔑」か?

タグ

, ,

Charlie Hebdoのカリカチュールについて、「表現の自由」か、「侮蔑」か、という議論が広がってきております。

個人的には、フランス人の考える「表現の自由」を支持したいと思いますが、参考になる記事がいくつかありますので、シェアしておきます。情報は多ければ多いほど、判断に役立ちますので。

シャルリー・エブドはレイシストではない(ルモンド紙の記事の翻訳)(ふつごぽんTMBL)
http://fukuinei.tumblr.com/post/107688280067

シャルリエブド襲撃:パリのテロをどう見るか(JBPRESS)
http://jbpress.ismedia.jp/articles/-/42633

例えば砂金採り(ほーい!さるやまハゲの助 BLOG)
http://www.saruhage.com/blog/20150112-763.html

フランス全土で400万人近くが列をなして行進

タグ

, ,

charlie

本日のLe Figaroより。

400万人近くの人がこの日曜、フランス全土で列をなして行進し、テロリズムの被害者に哀悼の意を捧げた。
動画がたくさん載ってますので、雰囲気を知るだけでもどうぞ。

http://c.brightcove.com/services/viewer/federated_f9?isVid=1&isUI=1