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イスラム国(ISIS)に対するツイッター利用者の攻撃と海外からの評価
http://blogos.com/article/104194/

ことの善し悪しは別として、今の日本と日本人のメンタリティを考える上で、ものすごく考えさせられた。

こんなことは「日本の恥だ」と切り捨てるのは簡単だ。しかしながら、では日本人おのおのの心の中はどう感じているのかを考えたときに、彼らの考え方を100%否定できるだろうか、とどうしても感じてしまう。

彼らがこんな非常時でもテロリストを茶化してしまうのは、単純に言って「当事者意識がないから」にほかならない。日本国の政治にも参加している意識がないし、そもそもそんな危ないところへ行くヤツが悪い、くらいの気持ちしか持っていない。自分には関係ない。こんなことでも日本や自分や自分の家族などがテロに巻き込まれる可能性がある、というような想像力すらない。だから、行動としては言語道断である。

しかし、その一方で、彼らを批判するご立派な意見の中には、「同胞意識が足りなすぎる」といった言説も見受けられる。まあ、その通り。同胞意識など彼らの中にはない。しかしながら、僕らの心の中に、はたしてその「同胞意識」がどれくらいあるのだろう? 僕個人に関して言えば、やはり希薄と言わざるを得ない。もちろん茶化したりしないし、マジメに深刻にとらえているわけだが、彼らが日本人の同胞だから、何が何でも救わなくてはいけないというような嘘偽らざる気持ちが、心の底から出てくるかと言えば、やはりそこには、ある程度突き放して今回の件を見ている自分がいる。日本人だから、同胞だから、という意識はやはり希薄だ。そして、この感覚は、多くの国民が言わないまでも、実は心の底に持っている偽らざる気持ちではないだろうか。

現代の日本人は、西洋的個人主義とはまた少し違うベクトルでの個人主義が究極化している国だと思う。「自分は自分、他人は他人」という自己中心的な考えにプラスして、「不干渉主義」とでもいうような、他人の行動に干渉しないという不文律ができあがっている気がする。たとえ、それが道徳にもとることであっても、他人を注意したりすることはまずなく、困っていそうな人がいても素通りする。西洋社会で言うところの「友愛精神」が足りない。フランス国旗になぞらえて言えば、「自由」「平等」はあっても(それもどうかという意見もあるだろうが)「友愛」はない。もちろんすべての日本人がそうだというわけではないが、全体の傾向として、不干渉主義が社会を覆っているのは間違いない。よく出てくる「自己責任論」も、結局はここから出ている。

その不干渉主義が、先日の「Charlie Hebdo」事件では、「やらなくていいことはやらないほうがいい」という声になって現れたと思わなくもない。その一方で、ネット上(より正確に言えば「2ちゃんねる」上)では、匿名をいいことに、やりたい放題・言いたい放題の日本人も大勢いる。彼らにとっては、それは「表現の自由」だというのかもしれないが、Charlieの例と違うのは、ある程度責任を持って、あるいは問題意識を持っているわけではなくて、単に「おもしろいから」という程度の軽い動機しかないことである(先日の、ようじ混入事件とかもまさにそうだった)。彼らにとって、世界のどこかで行われている戦争やテロは他人事であり、そんなところに首を突っ込むようなめんどうな人間は、自分とは関係なく、助けるに値しないというわけだろう。そもそも、彼らは、きわめて狭い社会(ネット含む)で生きていて、自分さえ平穏であればそれでいいわけだから、同胞意識や友愛の精神などはなからあるわけがない。

そうした日本人の、一種行き過ぎた(必ずしも文字通りではなく、ある意味では世界で一番自由な)パロディ表現に、世界中が驚くのも無理はない。グローバルな一般的なセンスでは、「それはあり得ないこと」だろうから。「人の命が、同胞の命がかかっているのに、あえて、敵を怒らせるようなことをするのか?」と怒る人も出てきそうである。もしかしたら、当のISの人間が一番驚いたかもしれない。「日本人は、同胞の命をどうとも思っていないのか?」と。答えは、Noであり、またYesである。もちろん、日本人だって同胞をおもんばかる気持ちはあるが、グローバル標準の意識からすると、それはかなり低い。高額な身代金を払う必要性はないと、国民の大半はおそらく思っている。政府も、表だっては言わないが、払う意思はないだろうし、見殺しにする用意はできているだろう。ある意味で、恐るべき同胞愛のない冷徹な国民であることが、今回の事件で明るみに出た気がする。西洋社会のみならず、世界からも「日本人はクレイジーだ!」と思われるだろうが、これは一部の人間の行き過ぎた表現ではあるものの、実は、多くの日本人のメンタリティの極端なデフォルメだとも言えなくない、そんな気がしている。

そんな中で、「国家って何だろう」とふと思う。「国家とはすなわち国民である」というなら、今の日本を覆うこの同胞意識の低さ(たとえば、沖縄の基地問題とて、このコンテクストで読めば理解できる)は、はたして国家として機能しているのだろうか? フランスはフランスで、先日のCharlie事件で、国民とは何なのか、国家とは何なのかを真剣に問い直していると思うが、日本は日本でそのあたりの部分をしっかり捉えなおしたほうがいいのではないだろうか(正せとは言わない。何が正しいのかは誰にもわからないから)。「国家は国民の生命を守る義務がある」というが、そもそも国民(=国家)が望んでいないとしたら、それも自己責任だとみんなが思っているとしたら、この大前提自体が成り立たない。現代日本はそうした国家的枠組みが非常に危ういところまで来ているのかもしれない。