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150128HANNA

先週の風邪がまたぶり返してきたようで、咳がひどくなってきたため、今日は大事をとって早退。とはいえ、ずっと咳が出ているわけでもなく、寝てなければならないほどの状態でもないので、ソファに横になりつつテレビを見てたら、少し前に気になっていた「ハンナ・アーレント」をWOWOWでやっていたので視聴した。

ハンナ・アーレントは、ハイデッガーの弟子であるユダヤ系の女性哲学者である。当然ながら、ナチスとユダヤの問題は身をもって体験しているのだが、それでもなお安易にイスラエルを支持せず、あくまでも客観的に物事をとらえていこうというその姿勢を追った映画だった。実に考えさせるべきところの多い良作であったと思う。

ハンナは、イスラエルのモサドにとらわれた元ナチスの大物・アドルフ・アイヒマン(多くのユダヤ人を収容所に送ったとされる)の裁判を傍聴し、その奥に隠された「悪」の姿を真剣に思考する。彼女によれば、アドルフ・アイヒマンはただの平凡な役人でしかなく、その無自覚な、無思考な態度こそが「より大きな本当の悪」だと説く。

しかし、イスラエルはもとより、大きなユダヤ人コミュニティを抱えるアメリカでも、彼女の書いた記事はとうてい受け入れることのできない問題として大反発を招く。彼女の友人であったユダヤ人も次々と彼女と絶交していく。それでも、彼女は自分の考えを曲げたりしない。なぜなら、自分はユダヤ人であるが、それ以前に人間だから。私が愛するのはユダヤ人ではなく、自分の友人だから、という。非常に信念の強い、そして非常に客観的な思考を持った人だったことがよく描かれている。

この映画で重要なのは、思考することの重要さと、思考することの孤独さだと思う。それこそ師のハイデッガーが言ったように。たとえ100人中100人がNoと言っても、私はこう思うと言える強さがあるかどうか。それが真実であると思考し抜く力があるかどうか。

このテーマは、昨今の「表現の自由」とも大きく関連している。真の表現の自由とは何なのか? ハンナの例は極端な環境(ユダヤvsナチスという憎悪関係において、ユダヤである彼女が、当時のユダヤコミュニティのリーダーを部分的に批判した)であるが、こういう「同調圧力」というのは、どの世界でも存在する。イラク戦争当時のアメリカがそうだったし、太平洋戦争時代の日本もそうだったろう。真実を考え抜き、それを言うことをやめて、思考を止めることの恐ろしさ。それこそが全体主義への道であると彼女は言う。そして、あのナチスが引き起こした全体主義の本当の悪とは、そこに思考を止めて参加した多くの国民(たとえばアイヒマン)と、実は被害者であるはずのユダヤ人の中にもいたナチスへの協力者(もちろん全面的な肯定ではないだろうが)にもあるのではないか、と彼女は問うている。そんなことを、はっきり言い切れる哲学者が、論客が、ジャーナリストが、この国にどれだけいるだろうか。

「人のいやがること、不快だと思うことはしなければいい」。これが、多くの日本人の情緒的思考だということが「Charlie事件」のリアクションでわかったが、時には、周りの人の不快を買って、絶交されたり、生命の不安を感じたりしながらも、真実を言い続けることに意味はないだろうか。そういう思考を止めて、周りと同調することだけが重要なのだろうか。そういうことを言っても、さまざまな圧力によってつぶされないことが、本来の「表現の自由」であると思うのだが、何かあれば「自粛」することを美徳と感じる国民にはなかなか理解しがたい概念なのかもしれない。

非常に示唆に富んだ作品だし、ハンナ・アーレントの著作をぜひ今後読んでみたいと思わされた。

映画「ハンナ・アーレント」公式サイト
http://www.cetera.co.jp/h_arendt/