昨日に引き続き、フランスのCharlie Hebdoの襲撃事件について書きます。
昨晩僕が書いたエントリーの骨子は、今日1日日本のwebをチェックしていた限りでは、いくつか目にすることができました。さすがに、国際経験豊富なジャーナリストや国際政治学者がきちんとものを言ってくれるだけの知性が我が国にはあるということでしょう。少し安心しました。
その一方で、少し僕の思っている問題意識と異なる意見も目にしました。すごく簡単にまとめてしまうと、「宗教や信仰について、表現の自由がどこまで許されるのか。行き過ぎの自由は侮辱ではないのか」という問題提起です。僕ももちろん、この考えについてはほぼ全面的に同意なのですが、ただ、今回の問題は、そんな一般論では片付けられないほど深刻だと思っているのです。
現在のフランスにおける移民の問題は昨日のエントリーで書いたとおりです。もちろんここには、自己の出自に起因するどうしようもない格差があります。キレイごとではなく、犯人の彼らはおそらくひどい環境で育ち、ひどい仲間に囲まれ、ひどい青春を送ってきたはずです。なんだかんだ言って、全体的に生活レベルの高い日本では想像もできないことかもしれません。現代版「レ・ミゼラブル」な世界があったのかもしれません。そういう環境で育っただろう彼らが、自己のアイデンティティーや「救い」を求めるため、イスラム原理主義に傾倒し、今回の犯行に及んだ。現象としては、こういうことかと思います。まず、これは事実として感情を差し挟まずにしっかり把握する必要があります。
いっぽうの「やりすぎ」とも言われる「Charlie Hebdo」ですが、確かにイスラムの象徴としてムハンマドもカリカチュアとして笑っていますが、同時にフランスの政府やカトリックも同様に笑い飛ばしている。一方的に、イスラムを攻撃していたのであれば問題ですが、「Charlie Hebdo」の場合、そういう立場ではなかった。編集方針は「タブーを作らない」ということで、その対象はさまざまでした。これは、フランスに古くから根付くカリカチュアの伝統で、こういうギリギリの笑いを「エスプリ」としてフランス人は受け入れてきたという歴史があります。この文化的背景は押さえておかなければいけない。
もちろん「Charlie Hebdo」のようなカリカチュアはギリギリのところを突く笑いだからこそ意味があるわけで、多くのフランス国民にしたところで、それは「笑って終わり」な話でしかないわけです。我が国で東スポがテキトーな記事を書いても、誰も本気で怒ったりしないというのに似ているかもしれません。そういう寛容さがあるわけです。そうでなければ、エスプリは成り立たない。
でも今回は、その笑いが通じなかった。いや、笑いを笑いと捉えない人物が「フランス国民」として報復に出たのです。もちろん、表現の自由云々の話もありますが、フランス文化のある意味根底をなしてきた、タブーを作らずに批判する自由というものが、この事件によって揺さぶられたと僕は思うのです。だから、フランス国民は今回素早く行動した。まるで、この自由に対する挑戦こそが、フランス国民のタブーでもあるかのようです。
「Charlie Hebdo」はやり過ぎたという意見もあります。宗教をあげつらうのはやめたほうがいいという意見もあります。でも、宗教をタブー視することのほうが、僕は危険だと思います。日本人は、あのオウム事件を忘れたのでしょうか。オウムは危険だからと批判をやめてしまったら、どうなったでしょう。オウムを批判して消されたとおぼしき人も知っています。表沙汰にはなりませんが。それをも言い過ぎだと言うのでしょうか。世界は、言わなければ、我慢すればそれでいいという相手ばかりではないのです。
僕ももちろん、イスラム教を非難するものではありません。本来のイスラムとはそんなものではないことも知っています。しかし、今回のような事件が、西洋対イスラムの問題のようにクローズアップされたりすると、とんでもないことになりそうで怖いのです。今回の事件は、パリの貧民街に生まれた将来を悲観した若者が起こした、ろくでもない殺人事件なのです。そこに、イスラム原理主義という格好の材料があったにすぎない。そう考えるべきなのです。本来のイスラムはそういうことを志向しない。そこを取り違えてはいけない。それこそ、移民やイスラムを排除しようとする「FN」などの右翼の思うつぼです。
ただ、依然として、フランスやヨーロッパの移民あるいはその二世三世の問題は解決されない。この流れでいくと、本当に彼らは排除される標的になってしまいます。もちろん彼らにも問題はある。だけど、ここはヨーロッパの知性を総動員してでも、何とか着地点を見いだすべき問題なのです。歴史を見れば、第二次大戦前にも、ユダヤやロマの排斥問題というのが渦巻いていた。ヨーロッパは再びこの過ちを犯してはならない。そう考えるヨーロッパの人達がまだまだたくさんいることは唯一の救いです。
一方で、日本には、在日韓国人・朝鮮人という問題もあります。一部で在特会のヘイトスピーチなどの問題も起こっており、これがまあFNに相当する存在と考えてもいいでしょう。彼らは一方的に対象を差別し排除しようとしている。それと、「Charlie Hebdo」の表現が同じだと思う人はよもやいないでしょう。しかし、仮に、在日の誰かが、フランスと同じような事件を起こしたら、我が日本人はどう行動するでしょう。僕には目に見えるようにわかります。間違いなく排斥運動が起こりますよ。だけど、フランス人はそうは言っていない。彼らは、自由を貫いた同胞を哀れんでいるが、報復せよとは言っていない(右翼は逆のことを言っている)のです。フランス人の持っている国際感覚、エスプリの感覚とはそういうものだと思います。
フランスという国や文化は、日本人にとっては実はなかなか理解できない存在です。僕もかつてはそうでしたからよくわかります。だからこそ、ある程度理解している人間として、何かを書かざるを得ないという心境です。この事件については、もう少しいろいろとフォローしようと思っています。